【映画】怪物レビュー考察&感想☆怪物は私かもしれない件。

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映画「怪物」観ました。

人のふるまいの複雑さとか、目には映りにくい真実とか、とても考えさせられた本作品、未だに胸がいっぱい…、余韻は濃さを保って続いております。この思い、薄れてしまわないうちに、綴っておきたい、と。

映画「怪物」タイトルと物語について

結論、映画「怪物」は、そのタイトルから連想していた(してしまっていた)内容とは、全く別物でした。

告知イメージと実際

「怪物だーれだ」
子供たちの声とともに、次々と映し出される、登場人物たち…。

映画「怪物」の告知として流れていた、短い動画(以下)。これを観てしまうと、本作品はミステリー色が強い、犯人捜しの物語のように映るかもしれません。

実際、劇場にて本作品を観始めた時、私は、ほぼ無意識に「怪物」探しをはじめていましたし…。

▼映画「怪物」の告知動画

でも、物語がすすむにつれて、あぁ、そういうことではないのか、と。

「怪物だーれだ」は、子供たちが交わしていた、微笑ましいとも窺える、ひとつのゲーム(インディアンポーカーのイラストカード版)の掛け言葉にすぎず。それは、ミステリー性を煽る告知のイメージとはかけ離れたフレーズとして、物語の中に存在していました。

むしろ、「怪物」というタイトルに、何故、という疑問すら。

でも、考えてみると、このインディアンポーカーというゲーム。自分の額に一枚のカードを当て(自分では見えない状況)で、相手の言葉頼りに、見えない実態を推理し合う遊びです。

当事者には見えない物事を、傍観者の言動や推測で、答えが導き出されていく…。これは、何となく、現実社会のようでもあり。真実を言い当てる難しさ(あるい浅はかさ)をも、重ねて。

映画「怪物」作品全体について

まずは、映画「怪物」はどんな作品なのか、フレームを抑えておきたく思います。

脚本「怪物」が生まれたきっかけ

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ドラマ「カルテット」や映画「花束みたいな恋をした」など、心の機微を紡ぎ出す名手として知られる、脚本家の坂元裕二さん。今回、「怪物」については、物語が生まれるきっかけとなった、あるエピソードについて語る記述がありました。

それは、坂元さんが車の運転中に遭遇した出来事。

前方で信号待ちをしていた大きなトラックが、青になっても、動かず進まず…。その状況に、何度もクラクションを鳴らしていたところ、少し時間を置いて、横断歩道を渡る車いすに、気づくことになった、と。

その時、坂元さんは、申し訳ない気持ちとともに、見えているところだけに注力してしまうことで、間接的に加害者になってしまうことがある、と感じたそうです。そして、このことを、どこかで伝えたい、と。

確かに、ある出来事に対し、目に見えていることだけの中では、何も問題なく映っても、ある側面から見れば、問題になっていること、少なくないですね。

今回、映画「怪物」では、同じ時間軸を、違う登場人物の視点で描くことで、それぞれが全くの別世界であることを、改めて、気づかせてくれています。

スタッフ・キャスト

  • 監督・編集:是枝裕和
  • 脚本:坂元裕二
  • 音楽:坂本龍一
  • 企画・プロデュース:川村元気/山田兼司

登場人物

  • シングルマザー:麦野早織 (安藤サクラ)
  • 担任教師:保利道敏(永山瑛太)
  • 早織の息子:麦野湊(黒川想矢)
  • 湊のクラスメイト:星川依里(柊木陽太)
  • 保利道敏の恋人:鈴村広奈(高畑充希)
  • 依里の父親:星川清高(中村獅童)
  • 校長先生:伏見真木子(田中裕子)

映画「怪物」あらすじ

舞台は大きな湖を見渡せる長閑な町。小学校で起きた子どもどうしの喧嘩をきっかけに、人々のかかえた業が露呈していくことに。

担任教師から暴言と体罰を受けたと話す息子、小学校へ抗議するシングルマザー、真実を体裁よくまとめて頭を下げるだけの学校、体罰を否定する教師、それぞれの主張は大きく食い違い…。真実が見えないまま、それは、やがて社会やメディアを巻き込んだ大事へと発展していくことになります。

そして、ある嵐の日、子供たちは消え…。

映画「怪物」ストーリー構成

本作品は、3部構成で、ひとつの出来事を、母親、先生、子供たちの視点で切り取って描いています。同じ時間軸を3回ループするも、それぞれに映る景色や思いは、まるで別世界。自分と、家族と仕事仲間と、友人と、違う者それぞれの感覚が、おそらくそうであるように。

1部:シングルマザー早織の視点

脱衣所に切り落とされている髪、水筒から出る泥、耳の傷、片方ないスニーカー…、息子、湊の様子が何かおかしい。母親の早織が、同級生からのいじめかと問いただせば、担任の保利先生の仕業だ、と。学校へ抗議に出向く早織だが、学校側の正気のない謝罪に、激怒。立場の違う者どうしの平行線は、多くの観客が早織への同調と傾いていくが…。

2部:担任講師 保利先生の視点

教室では、生徒の話に耳を傾け、子供たちとのコミュニケーションも良好そうな保利先生。トイレに閉じ込められた依里とドア前に立つ湊、教室でのけんか…。もしかしたら湊が依里をいじめているのかもと疑いつつな日々。そんなある日、教室で湊があばれ、保利はそれを止めようとした時、タイミング悪く、湊の鼻に手があたり、体罰扱いに。

プライベートでは、印刷物の誤植探しに喜びを感じる、細かい性質だが、その気質が、依里の作文に綴られた隠れたメッセージを解くことになります。主人公の子供たちに寄り添えた、唯一の大人。

3部:子供たちの視点

クラスでいじめられ、父親からは虐待さながらの教育を強いられている星川依里。彼のことが気になる存在だが、その気持ちに戸惑う麦野湊。二人は、学校内ではクラスの同調圧力に逆らえず、かかわりを避けてはいるものの、学校の外では親しい仲。二人は、暗いトンネルを超えた先にある廃列車を秘密基地とし、そこで自分たちが生まれ変わる空想に耽ります。宇宙の終わりを説く「ビッグクランチ」を真剣に期待していたりも。が、程なくして、依里は祖母の家に行かされることに。そして、運命のような嵐が…。

考察と感想

本作品は、伏線となる様々なシーンが複雑に絡み合う、細部を見逃したかも感満載で、すぐにまた観たくなってしまうというところがひとつの魅力かな、と思います。真実が想像に委ねられる、曖昧な出来事もいくつか。

映画「怪物」は、気になったシーンを繋ぎ合わせて、自分なりの解釈を導き出すのが、ひとつの楽しさ(あるいは苦しさ)となっている気がしています。鑑賞後、しばらく物語にとらわれたままになってしまったのは、私だけではないはず。

不確実で曖昧だからこその余韻

ラストシーンに観る二人のゆくえ

湊と依里が細いトンネルを抜けると、晴れ渡る世界が。

活き活きと繁る緑、降り注ぐ陽光が二人の世界でまぶしく輝く。かつてあった、陸橋のバリケードも、もはやなく。遮るものがなくなった未来のように映し出されます。

依里「僕たち、生まれ変わったのかな」
湊「そういうのは、ないと思うよ」
依里「そっか、良かった」

果たして、そこは、ビッグクランチ(宇宙の終わり)後の、天国なのか、それとも、現実に居ながらにして、祝福される居場所を期待できると信じられた世界なのか。

どちらともがあるかもしれないエンディングは、映画が終わった後にも、観る者の心に物語が続いていきます。いづれにしても、それぞれが各シーンで拾い上げた細部を集め、解釈の方向性が決まっていくところでしょう。

ちなみに私は、最初は天国か、と思っていたのですが、脚本を読んで、もしかしたら現実ともいえなくないかも、と自分内でも二極化している次第。

是枝監督はインタビューで、本作品は「世界は生まれ変われるか」というテーマを主軸に置いていたと語っていました。これは、自分と違う人々を祝福し合える寛容な世界を、私たちは創造することができるか、という問い、あるいは、希望かもしれず。

となると、ラストシーンは、天国ではなく、周囲が生まれ変わった現実の世界なのではないか、と思えてきます。LGBTをはじめ、様々な志向の共存が普通の世の中…。

「怪物」は私?

「怪物だーれだ」からの、「怪物」探しが崩れ、最後10分の切なくも美しいラストシーン、そしてエンドロール。

映画の余韻に揺れる頃には、「怪物」そのものは、いない、という思いに至った私です。

ただ、人生の中で、それぞれの心にある「怪物性」が立ち現れてくる場面は、確かにあるな、と。しかも、それは、自分では気づかない場合がほとんど。

人は、大概、信じたいものを見て、時には咄嗟に、あるいは無意識に嘘をついたりすることも。愛する誰かを守りたいがゆえに、社会から外れたくないがゆえに、とうにズレてしまったかのように思える人生をかき消したいがゆえに。

もしかしたら、人間が作り上げてしまった、理不尽や不条理が一般化したこの社会そのものも、大きな「怪物」なのかもしれず…。

解釈の幅が広い、映画「怪物」。

よかれと思った言動が、時に、誰かを傷つけているかもしれず、また、上っ面の浅い知識で、無責任に何かを言い放ち、誰かに不快な思いをさせていることも、一度や二度ではないはず。この私も、十分「怪物」になり得るなぁ、と改めて。

久しぶりに、考えに耽る、そんな日になりました。

映画「怪物」個人的解釈

人は、常に見えるものしか見えず、それがそのままの視点で語られるとすれば、それはそれで嘘ではないと言えます。ただ、同時に、見えないものへの想像力は、大きく欠如してしまいがち。被害者と思っていても、視点によっては加害者にもなり得たりするわけです。しかも無意識に。

本作品は、社会という体裁の枠組みの中、それぞれの立場で、事情で、思いで、作り上げられた「正しさ」について、投げられたひとつの「問い」かも、と。それが、私が一度の観賞で受け取った、個人的なひとつの解釈です。

次々更新されていくニュースや記事、SNS情報…。私たちは情報の荒波の中から興味をそそるワードだけを拾い集め、物事を理解した気になってしまうことも多々。目の前にある、信じたい物事のコラージュが真実かのように。

見えない側面がある、ということを気にかけ、解ろうとすること、それを忘れないようにすることで、少しは優しくなれたりするのかな、と、思わされたりする、意味ある映画でした。

観て良かったです。